山元櫻月の紹介
秩父の宮妃殿下と櫻月夫妻
画家山元櫻月は、明治20年 滋賀県大津市に生まれ、13才で、竹内栖鳳とともに近代京都画壇を代表し、叔父でもあった、山元春挙の門に入りました。
 当初春汀と号し、明治40年第一回文展で「秋深き上高地」にて初入選以来、文展・帝展に連続入選し昭和4年より無鑑査出品となりました。

 華麗な山岳風景で知られる、師春挙は、そのモチーフだけでなく芸術家としての生き方に於いても、後の櫻月に多大な影響をお与えることになります。
春挙は昭和8年没する直前に、自らの画家としての人生を省みて「世俗的な名声はえたものの、真の芸術家としては虚しい生涯であった。師と同じ過ちを犯してはならない」と最愛の弟子に切々と論しました。
以後、雅号を櫻月と改め、画壇をはなれ、画商とのつきあいも断ち、富士山の麓、山中湖畔にアトリエをかまえ、半世紀の長きに亘り、全身全霊を傾けて、厳然としてそびえる神嶺富士を崇め、描き続けました。

清澄、幽玄な独自の画風は、横山大観の絶賛を受けました。又上野の西洋美術館、生みの親であるフランス美術館(文化大臣)ジョルジュ・サール氏を始めとし、世界各国で高く評価されています。
 昭和48年には、宮中新宮殿に収蔵されたことを始め、ルーブル美術館ロックフェラー財団などの重要施設に数多く収蔵されています。

 櫻月は、昭和60年97才で天寿を全うしました。
権威や体制におもねることなく、純粋な気持ちで独自の画境を切り拓きながら、平和を願い、神摯な生涯をつらぬき通した画家山元櫻月の作品は、日本を超えて世界の至宝であると存じます。
平成5年(1993年)
「櫻月の世界を観る会」発足
会の紹介
神嶺富士を描き続けた画家