明治 5年(1872年) 滋賀県大津市善所町に生まれる
   16年(1883年) 11歳 京都で野村文挙に師事する
   18年(1885年) 13歳 森寛斎に師事する
   19年(1886年) 14歳 京都青年絵画共進会で一等褒状を受賞
以後、展覧会で受賞を重ねる
   32年(1899年) 27歳 京都市立美術工芸学校教諭となる
   33年(1900年) 28歳 画塾同攻会を組織(42年早苗会と改称)
   37年(1904年) 32歳 セントルイス万国博覧会に際し渡米
   40年(1907年) 35歳 文展開設に際し審査員をつとめる
大正 6年(1917年) 45歳 帝室技芸員となる
    8年(1919年) 47歳 帝国美術院会員となる
昭和 8年(1933年) 61歳 京都にて永眠
明治5年(1872年)〜昭和8年(1933)
明治16年、京都の野村文挙に師事して春挙と号したが、18年に文挙が学習院教授として上京すると、文挙の師の京都画壇の重鎮でもあった円山派の森寛斎に師事した。
 翌19年、京都青年絵画共進会で一等褒状を受賞したのを皮切りに、日本美術協会、内国勧業博覧会、日本絵画協会などの展覧会で次々と受賞を重ね、竹内栖鳳、菊池芳文と並ぶ新進作家として頭角を現していく。

 明治37年、アメリカのセントルイス万国博覧会に、京都府から美術教育の状況視察を命じられ、そこで欧米の美術や風景に直接触れる機械をえる。このときの経験が後年の春挙の描く、洋画風の<風景画>と呼ぶにふさわしい、力強く、明快で、男性的とのいえる独自の作風を決定づけることとなった。
 一方、明治32年、京都市立美術工芸学校の教諭となり、翌年には画塾「同攻会」(42年早苗会と改称)を組織、42年からは京都市立絵画専門学校(現京都市立芸術大学)教諭(後教授)を兼任するなど後進の育成にも尽力。又40年の文部省展覧会(文展)開設に際しては、第1回展から審査員をつとめるなど、栖鳳とともに新しい時代に向かう明治後期の京都画壇の中心として活躍した。

 春挙の作風の特色は、雄大で美しく構成された風景画にある。洋画の遠近法や、写真術を応用しながら、あくまで写実と写生を基調にし、華麗な色彩の世界を描いているところである。
2002年美術年鑑評価額 13000万
横山 大観    
2002年美術年鑑評価額  3億5000万

茨城県水戸出身  
重文   文化勲章受章・芸術院会員・院展創立同人  
日本画壇の巨匠。岡倉天心と共に日本美術院を創立、終始一貫して在野精神を堅持、芸術活動を展開した。代 生々流転(水墨大絵巻)
昭和33年没89才  
山元 春挙 ・ 横山大観
山元春挙